【Working Life with IDDM 】 vol.11 海外勤務に終わりを告げた日

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異変は耳から現れた。予想だにしなかったがん宣告

ヒューストンに渡り1年を迎えた頃、左耳に異常を感じました。

飛行機を降りた時に、上空と地上の気圧差で耳がツーンとなることが誰にもあると思いますが、やがて消えるものです。ところが私の左耳は詰まった感じがいつまでも取れないのです。鼻をつまんで口も閉じて息を吹くと、右耳は息が抜けましたが左は抜けません。またそれ以降、ときどき出る痰に血が混じっていることがありました。

しかし、それ以外は特に普段の生活に支障はなく、ちょっとした耳の病気だろうと思い、ヒューストンで耳鼻科に行きました。そこでは耳の穴の外から覗いて診ただけで抗生物質のペニシリンを処方されました。それを飲んでも状態は変わりませんでしたが、ちょうど日本への一時帰国が迫っていましたので、日本で診てもらえばいいとそのままにしていました。

日本に帰って神戸の自宅近くの耳鼻科に行くと、マイクロファイバースコープを口から入れて喉の奥を覗いた医師から 「紹介状を書くから、すぐに大学病院へ行きなさい」 と言われました。その段階で病名は告げられませんでしたが良くないことはすぐにわかりました。

早速、大学病院に行き詳しく調べたところ、「上咽頭がん」と診断されました。喉と耳の穴が合流するあたりに腫瘍ができてそれが左側にあったため、左耳が詰まる症状になっていたのです。この場所は手術で腫瘍を取ることができないため、放射線治療と化学治療(抗がん剤)の併用になると言われました。少なくとも2か月の入院が必要との診断で、すぐに上司に報告しました。

 

家族の負担を考え、日本で治療生活を送る決意

ヒューストンは世界有数の医療機関がある都市です。最先端のがん治療センターもありますので、ヒューストンでの治療を当初は考えました。しかし米国生活の長い上司から、米国と日本では病院のシステムや治療方針が大きく異なることや、細かい病状を英語で正確に伝えるのは難しいことを考慮するようアドバイスされたのと、何より私が動けないと妻が生活や学校の全ての対応を行わなければならないことを考えると、ヒューストンでの治療は断念せざるを得ず、日本に帰国して治療することにしました。

また、これに伴い私の米国駐在の任は解かれ、日本へ帰任となってしまいました。あれほど思い焦がれた海外勤務があっけなく終わってしまい、病気になったことより、海外勤務が終わったことの方が私には大きなショックでした。

夏休みのつもりで一時帰国した日本で、いきなり帰任の準備が始まりました。家財道具もそのままでしたので、一旦全員でヒューストンに戻って、仕事、学校、住宅、銀行、その他すべての解約手続きを大慌てで済ませ、8月下旬に家族全員で神戸の自宅に戻ってきました。生活するための最低限の手配は私が行いましたが、入院の日が迫り、長男の高校編入手続きは妻に任せるしかありませんでした。通常海外からの帰国子女の受け入れは7月に行われるため8月に帰国した長男を受け入れてくれる学校が見つからず焦りましたが、海外子女教育振興財団の方に助けていただき、市内の私立高校に編入できました。次男は中学生でしたので地元の公立中学に問題なく戻れました。

こうして私の闘病生活が始まりました。

 

がん闘病と、血糖値コントロールの日々

がんという命に関わる病気に対する恐怖心は不思議なことにまったくなく、とにかくこの病気を治して早く仕事に戻り、家族の生活を立て直すことしか頭にありませんでした。放射線治療自体は痛くも痒くもないのですが、回数を重ねるにつれ喉全体が口内炎となり、痛くて水も飲めなくなりました。また抗がん剤の副作用で何か一口食べても吐き気に襲われ、まったく口から栄養を摂れなくなりました。

点滴だけで何とか過ごす日々で、インスリン量も大幅に減らしました。驚いたのは病院にいるのに血糖測定は自分で行わないといけないのです。インスリンと測定チップ、針はもらえましたが測定器は持ち込みでした。また低血糖が怖いのでいつも血糖値は高めに誘導され、200?400 mg/dL くらいで過ごしました。予定の2か月で放射線治療も抗がん剤治療も終わりましたが、入院前に66 kg あった体重が49 kg まで減り、白血球も大幅に減少していたことから、それから1か月を体力回復のために要しました。結局3か月超の入院となり、やっと退院できたのは季節の変わった12月になってからでした。

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