【Working Life with IDDM】vol.04 絶たれた海外赴任の夢、理由は理不尽過ぎるものだった

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岡山で 30 才のときに 2 型糖尿病と診断され、その後大阪に転勤となり 1 型糖尿病と診断が変わりインスリン注射を始めました。当時インスリンは N (持続型) と R (速効型) しかなく、どちらも今の持続型や超速効型と違って中途半端な持続時間を持つインスリンでしたので、効果のピークと食後の血糖値上昇のピークを合わせるのに苦労しましたが、 30R (N70%+R30%) や 40R (N60%+R40%) などを試しながら、 HbA1c は 7% 前後で何とか良好な血糖値管理を続けていました。仕事では開発したばかりの新素材を国内外の市場に売り込むべく、インスリンを打ちながらヨーロッパ、アメリカ、韓国などへ何度も出張しました。

海外出張が多かったこともありますが、元々好きだった英話のレッスンを数年間続けた結果、 TOEIC スコアは 800 点台にまで上がりました。アメリカ出張の際、数日間仕事の場所を借りたニューヨーク事務所で現地の社員に 「伊勢さんなら明日からでもここで働けますね。」 と言われ、とても嬉しく思ったことを鮮明に覚えています。

  

天国から地獄へと突き落とされた辞令。その理由は

当時会社は欧米に市場開拓の拠点を築いているところで私達技術者にも海外駐在の可能性が広がっており、私は世界に活躍の場を広げたいと強く思うようになりました。年に一度の配属希望調査でも海外駐在を希望する旨を記載して提出していました。

そんなとき、年末の東京出張の際、上司からすぐに大阪に戻るように連絡がありました。部門長から年内に伝えておきたい大事な話があるのですぐに戻れというのです。あいにく年末で新幹線の指定席が取れず、すぐには戻れないと上司に伝えたところ、グリーン車ででも帰ってこいと言われました。当時、ドイツに派遣する次の技術系駐在員の選定作業が行われていることは知っていましたので、これは私がドイツ駐在員に選ばれたに違いないと思い、舞い上がる気持ちを抑えつつ大阪に戻りました。

しかしそこで私を待っていた辞令は 「岡山転勤」 でした。-天国から地獄-。
私を押しのけて駐在員に決まったのは後輩の技術者でしたが、彼は全く英語が使えず、以前彼が海外で発表することになったときには私が彼の原稿をチェックしたほどでした。本人も海外勤務を希望しておらず、後でわかったことですが、駐在が決まり英会話学校に行ったところ、数か月で駐在できるレベルにはできませんと断られ、数校回ってようやく受け入れられた程のレベルの低さでした。そんな奴に何故負けたのか?いくら考えても納得できませんでした。

  

海外駐在不可の理由を「1型糖尿病」と答えた役員の非常識

その後年末年始の休暇に入りましたが、これほど苦しく不満に満ちて悶々としたお正月を迎えたことはいまだにありません。何故だ、何故なんだという思いが頭の中を駆け巡り、眠れない夜が続きました。そして新年の勤務が始まって数日後、どうにも気持ちが治まらない私は、直属の上司を介さず部門長の重役に直接面談を申し入れて 「何故私が駐在員に選ばれなかったのですか?」 と聞きました。答えは 「 1 型糖尿病だから」 でした。 HbA1c は 7% 前後をキープし合併症もまったくなく、業務に一切支障を来しておらず、それどころか 2 ~ 3 週間の一人での海外出張も何度もこなしているのに、何故?何故?何故?と思いましたが、一旦下された決定が覆ることはなく私は再び岡山の工場に勤めることになりました。

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