【Working Life with IDDM】vol.06 チャレンジすることをあきらめなかった日々

LINEで送る
Pocket

失意と共に始まった新生活。それでも自ら目標を立ててチャレンジする心を忘れない

海外赴任を逃し、都落ちのような気持ちで 1998 年に再び岡山に赴任しました。

岡山での主治医は、最初に 2 型糖尿病と診断された総合病院で私を診てくれた医師が独立開業しておられたので、そこに行くことにしました。 2 回目の岡山での暮らしが前回と異なったのは、前回は独身だったのが、今回は妻と二人の息子を抱える 4 人家族になっていたことと、 2 型糖尿病が 1 型糖尿病になっていたことでした。
仕事面では本社勤務から工場勤務となり、団地からスーツで電車通勤していたのが、社宅から作業服で自転車通勤するように変わりました。しばらくはなかなかモチベーションが上がらず悶々としていましたが、管理職への昇格試験に合格して十数名の部下を持つ課長となり、責任感から前向きに仕事に打ち込むようになりました。工場勤務とはいえ、前回の生産部ではなく開発部に勤務していたため、本社勤務のときのように国内外への出張は多い状況でした。

  

ただ待つだけより、動き出したい。そうやって病気との関わりも拓いてきた

前回紹介した、私が新たに立ち上げたメーリングリストは参加者が 200 名を超える大所帯となりました。当時はまだ今ほどインターネットの個人利用が進んでおらずブログなどもなかったため、メーリングリストはとても使いやすい情報交換の場であったからだと思います。私は出張で訪れた東京や博多でメンバーを集めてオフ会を開いたりもしました。和気あいあいと立ち上がったメーリングリストではありましたが、参加者数が増えてくるとどうしても派閥が生まれてきました。
私は管理者として、そのような派閥をなるべくつくらず、皆が互いを認め合って平和につながる場を維持しようと努めましたが、派閥メンバー同士が裏でメールのやりとりをするようになりました。私が管理者としてメールのやりとりに気を配り必要に応じてコメントを入れていたため、以前属していたメーリングリストのように表立った対立や論争は起きませんでしたが、私の仲裁を受け入れてもらえなかった一部の参加者はメーリングリストから去っていきました。

団体が一定以上の規模になると皆が同じ方向を向き続けることが難しいということを痛感しました。その一方で、このメーリングリストで出会ったことがきっかけで、ある男性メンバーと女性メンバーの間で交際が始まり結婚に至ったということもありました。

  

磨き続けた英語力をいかすことができた!無駄なことはないという実感

岡山に移ってからも、海外の糖尿病情報収集にも努め、膵島細胞移植などの情報を見つけてはメーリングリストで紹介したり、主治医に質問したりしていました。そんなとき 1999 年のミスアメリカに選ばれた 1 型糖尿病の女性、ニコル・ジョンソン ( Nicole Johnson ) さんが日本を訪れ、全国を講演して回るという催しがあり、私の住む岡山にもやって来られました。
もちろん私はすぐに参加を申し込み、岡山駅近くの会場に駆けつけました。
講演はニコルさんが 1 型糖尿病と闘いながら、ミスアメリカの栄冠を勝ち取るまでの感動的なお話で、講演後、会場からの質問にニコルさんが答えるという時間があったため、私は手を挙げて指名を受けると 「直接ニコルさんとお話ししたいので通訳を介さず英語で質問したい。」 と言いました。

Living with Diabetes / Nicole Johnson
Living with Diabetes / Nicole Johnson

質問は 「糖尿病で悩んだり落ち込んだりしたとき、どのようにして元気を出しましたか?」 という内容で、それに対するニコルさんの答えは 「両親や友達に相談しています。」 というものでした。緊張してうまく話せませんでしたが、ニコルさんの記憶の片隅に残っていたら幸いです。

その後アメリカ出張でニューヨークに行ったときに書店を訪れて、ニコルさんの著書 「LIVING WITH DIABETES」 を買ってきました。今ではアマゾンで簡単に海外の書物も買えますが、自分で探して手に取ったときの喜びは通販では味わえないものでした。

Related posts:

LINEで送る
Pocket